Bob’sRed Millとは?
Bob‘s Red Mill Natural Foods, Inc.(ボブズレッドミル・ナチュラルフーズ)は、1978年の創業以来、ホールグレインの製パン用ミックス粉、オーガニック製品やグルテンフリー製品など製造する米国オレゴン州ミルウォーキー市に本社を構える従業員所有のメーカーです。創業者のボブ・ムーア氏は、人々の健康を第一に考え、栄養価が高い全粒穀物(ホールグレイン)を伝統的な石臼製粉機を使用して製造加工しています。現在では、シリアル (オーツ、グラノーラなど)、全粒粉、ミックス粉、種実類をはじめとするUSDA認証のオーガニック製品、グルテンフリー製品、製パン・製菓材料など400種類以上(全1600商品以上)の製品を製造し、全米や世界中で販売している、アメリカNo.1のホールグレイン&ナチュラルフーズカンパニーです。
Bob’s Red Millができるまで
ボブ少年は、16歳のときにはすでに、May Companyというデパートで働いていました。そこは高齢の従業員がとても多かった中、彼はある日ボスの部屋に呼ばれます。ボブは、首を着られるんじゃないかと震えながら、おずおずと部屋に入ると、ボスが言いました。「ボブ。自分が担当の部門を持つことに興味はある? 一時間に1ドル払うけども」 ボブ少年は、嬉しさが爆発せんばかりに、二つ返事で外に飛び出していきました。それは、社会がボブに何かをしてくれた、人生で最高の輝かしい瞬間だった、と。彼はその時の感動を今も忘れられないと言います。
高校を卒業して3年間の兵役を終えた後、彼は将来の妻、チャーリーに会います。そして彼女と結婚して、二人の間には3人の男の子ができます。その頃、彼はMotor Companyで働いていて、生涯そういう風に暮らしていくのだろうと思っていました。その頃、彼の父(49)が突如亡くなります。心臓発作でした。まだ20代だったボブは、元気だった父をある日突然失ったことをひどく悲しみました。
そんな時、ロス市内の通りを運転していて、ある看板を見つけました。
「ここにガソリンスタンド開店予定」
彼は、すぐさまその電話番号を書き取り、電話しました。手持ちの金がいくらあるか、など深く考えもしていませんでしたが、とにかく自分のビジネスを手に入れたかったのです。聞くと、自分の手の届く範囲の6000ドルだったので、彼はすぐさま自分の持ち家を売って、そのガソリンスタンドを買いました。自分のビジネスを初めて持ったその感動を、彼は今も覚えています。それは、自分とお父さんが話し合っていた夢をすべて満たしてくれるものでした。ただ、お父さんはもうこの世にはいなかったけれどー。
しかし、その頃にはもうロスも大気汚染などの公害がひどく・・都市のスモッグの中で子供は育てたくない、と思い、数年後の1959年、ボブと妻のチャーリーはそのスタンドと自宅を売って、ロスの北に位置するマンモス・レイクという山の中の小さなスキーリゾート地に引っ越すことにしました。
そこで、手持ちの資金17,000ドルで新たなガソリンスタンドをオープンしました。しかし、そのビジネスはうまくいかず、1年後にはお金がすっからかんになって、家にあるものすべてを売らざるをえないほどにまでなってしまいました。
結果的に、家族はサクラメントに移り、そこで教会牧師の持つ貸家のシャワーの壊れた一室に、お情けでしばらく住ませてもらうことになりました。その時は、人生の最も低い地点にいたと彼は言います。家具もなく、夜はキッチンにマットレスを敷いて夫婦が眠り、子どもたちは寝袋で寝るような生活でした。人間堕ちぶれた時は、戦う力もなく、ただただ赤ちゃんのように無力だったといいます。
ムーア氏はFirestoneのタイヤ屋の店長としての職を得て、またなんとか自活することができました。彼は、5エーカーのヤギ牧場を買って、そこで子どもたちを育てました。その頃、彼と息子たちは地元でミルクや卵を売ったり、妻チャーリーが全粒パンづくりを始めました。そこで、本当に彼自身、石臼で挽いた小麦粉で実験を始めることにしました。
石による製粉は、製粉産業が鉄のローラーに移行して以降、世の中から一旦忘れ去られていましたが、石英(クオーツ)の石臼が低温で胚と油とふすまと内胚乳を混ぜ合わせることで、穀物の栄養をそのまま壊さずに保つことができるというものです。
彼は、妻チャーリーと話し合いを重ねた後、図書館の本の中に載っていた当時の製粉会社10箇所に手紙を書きました。(インターネットもなかった時代です!)そしてそのうち2つから返事をもらって、ノースカロライナ州のある廃業した製粉所に、彼にとって最初の旧式石臼を見つけます。
彼の心の中には、世の中はもっと健康であるべきだ、栄養のある全粒粉からつくったパンが必要なんだ、という強い思いがあった、といいます。
その19世紀後半につくられた石臼三つはガレージにしばらく保管されていましたが、数年後に加州のReddingに5エーカーの小さな牧場を買います。そこでムーアと妻、3人の息子のうち2人が製粉ビジネスを始めた時に初めて使われました。
1974年頃には、彼はJ.C.Penny(デパート)の車部門で職を得て、お金も貯めていました。そのお金で、街中の古い建物を買って機器を備え付け、ムーア製粉所と称してさまざまな穀物を挽き始めました。通りに面した壁には、石臼で粉を挽いている様子がよく見えるように大きな窓を付けました。そうやって、2年間は彼はJ.C.Pennyで働きながら、この製粉所も運営していました。
しかしボブと妻はReddingの製粉所を引退して、息子の一人にそれを任せることにしました。その製粉所は、今もムーアの現在の会社と契約していくつかの商品をつくっています。
彼の中には、聖書と、当時使われていた古代言語について真剣に勉強をしたいというもう一つの強い想いがあり、ムーア家はその後ポートランドに移ってボブが神学校に6ヶ月間通っています。それは、当時50歳だったボブにとって、新しい言語を習うことは努力してもかなり大変でした。
その頃、たまたま神学校の近くにOregon Cityで赤く塗った商業用の製粉所を見つけて、それに対する情熱を思い起こしました。そして、その製粉所が近いうちに壊されて売りに出される、と聞くと居てもたってもいられず、結局それを買って再び人生の方向転換をします。
ムーアはオレゴン州Dufurの近くの、すでに廃業していたボイド製粉所から石臼を買いました。また、インディアナ州やテネシー州の古い製粉所からも石臼を手に入れました。そこで初めて、1978年にBob’s Red Mill(ボブの赤い製粉所)として石臼で挽いた小麦粉やシリアルを地元でつくり始めました。初めてしばらくは彼の店で直接製品を販売していましたが、1978年に地元の大手スーパー・フレッドマイヤーが訪ねて来て彼と契約して以降、他店でもBobのの商品を売り始めました。
当時は、健康食品ブームに火が付き始めていた頃で、テレビ番組や雑誌などでBob’s Red Millのことが取り上げられたりしたため、ちょうどその波にうまく乗った彼らは、それほど努力なしでビジネス規模が自然にどんどん大きくなっていきました。
大事な製粉所が・・!
ところが1988年に、Bob’s Red Millに重大事件が起こります。
健康食品店や小さな食料品店での年間セールスが300万ドルに達しようとしていた時に、なんと製粉所が放火でほぼ全焼してしまいました。放火魔は全く関係のない人間で、ボブにとっては青天の霹靂でしたー。製粉所は木でできており、保管されていたのはたくさんの書類や穀物など燃えやすいものばかりだったので、火は夜中にボブの駆け付けた後もすごい速さで燃え広がり続けました。。
彼はそれを見てしばし呆然と立ち尽くしていましたが、その後駆け付けた消防隊に、建物内で最も守ってほしい部分はどこか、と聞かれたので、石臼のありかを教えてそちらを重点的に消火活動をしてもらえるようお願いしました。
そのお陰で、石臼3つはすべて、幸いにも難を逃れることができました。また、二階の床が燃え落ちる時に、二階に貯蔵されていた穀物が一階にドサッと落ちて、最終的に広がっていた炎を消し止めたのです。それが石英の石臼が熱で粉々に割れるのを防ぎ、それを動かす機械も燃えることなく残りました。
製粉所が燃えてしまった後、彼は失意の中このビジネスをたたむ、という選択肢も考えました。しかし、10年来自分の製粉所で働いている良き友人でもある夫婦の奥さんが、その夜に「先日、家購入の契約をしたばかりだというのに夫の仕事がなくなった」と嘆き悲しむ様子を見て、自分には他人の人生も預かっているという責任があるんだ、と感じました。そういうこともあって、彼がビジネスを再び元に戻そうとがんばる原動力となりました。
ボブは友人とともに州内で買い取れそうな既存の製粉所を探して回りましたが、見つからなかったため、会社は結局オレゴン州ミルウォーキーに新しい製粉所を建てることにしました。新しい6万平方フィートの施設内に工場と倉庫を再建築するのに、当時の金額で250万ドル(約3億2千万円)を借入したということです。
しかし、不思議なことに、その火事が起こって以降、Bob’s Red Millがナショナルブランドに急成長していったのです。
ボブは、企業相手というよりよりは小さな市場、地元の小売店、卸し業者などに働きかけてビジネスを大きくしていきました。他のサプライヤーたちが最新式の機械で早くて安い商品をつくって大金を稼ぐのに忙しくしている間に、ボブは全粒粉ムーブメントに気づいていち早く行動を起こしました。
彼らはまた、1991年の時点で最初のグルテンフリー粉、また小売サイズで最初の変わった穀物やシリアルを世に出した製粉所の一つでした。さらに、オーガニックやグルテンフリーへの遵守をテストする検査場を併設した最初の製粉所の一つでもありました。
1996年、ムーア氏は会社拡大と借金を完済するために共同運営の契約を結ぶことにしました。デニス・ギリアムは印刷業界の人間で、営業とマーケティングの副社長に就任しました。またジョン・ワグナーは管理部門の副社長となります。ギリアムは会社の最初の大きな地域の販売代理店となる Quality Brokerage and Nature’s Best に、事業を拡大しました。
ワグナーは、機械をの建設や修理を外注せずに社内で行う、また古い廃業した製粉所から中古の機械を購入することで、会社の借入金を減らしていきました。
2005年のBob’s Red Millの年間収益は、推定3千万ドル(約39億円)~5千万ドル(約65億円)と言われていました。
会社が非常に大きくなっていくにつれて、いろいろな人間や会社が、Bob’s Red Millを買いたい、と言ってきましたが、ボブは自分の会社のカルチャーが変わることを恐れて首を横に振り続けました。
2007年6月、会社は本社と製造施設・倉庫の両方を今までの3倍の3万平方メートルの建物に引っ越すことを発表しました。現在の製造施設は7600平方メートルです。新施設は会社の製造容量の3倍になりました。
2005年の時点で、その製品は日本でも買えるようになっていました。会社は他の国々にもその配送を拡大しようとしています。
そして一大決心へ
そして創立30年に当たる2010年、会社のオーナーであるボブ・ムーアは、皆が驚くようなことを発表しました。会社の所有権を従業員持ち株制度で彼の従業員たちに移管したのです。実の息子さんが3人いるにもかかわらずー。
先にも述べたように、彼は牧師にでもなれるほど聖書を人生の指針にしていました。その聖書には、こう書かれていると:「自分が他人にやってほしいことを、自分も他人に行いなさい」
そうすることによって、自分の人生は目に見えるほどに良くなる、と。それは、本当にそうだと思うし、それを実際に体感している、と。
「天国にはお金は持っていけないからね」彼は飄々と笑いながら言います。彼は、文字通り億万長者になりましたが、会社を社員たちに譲渡することで、今度は世界中の誰からも好かれ、尊敬されるという、霊的なレベルでも億万長者になったのですね。
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