トレーダー・ジョーズとは、アメリカで大人気のスーパーの名称です。日本人の間では、「トレジョ」と呼ばれて親しまれています。しかし、他のチェーン・スーパーとは一線を画してなんだかあちこち変わっているんですよね(笑)その所以は何なのか、なぜアメリカ人の間で相当数のコアなファンがいるのか、そのルーツを探ってみるために、創立者についてまず見ていきましょう。
僕がお店をつくった経緯について紹介するよ!
ジョセフ・ハーディン・コロンビ―(Joseph Hardin Coulombe)は1930年6月3日にサンディエゴにて生まれました。彼は、1年だけ空軍で兵役に服してから、1954年にスタンフォード大学でビジネスの修士号を取得しました。
ロスアンジェルスでコンビニ店主として悪戦苦闘していたジョー・コロンビーは、1967年にスーパーのチェーンをオープンしようと決心します。小さくても、近頃増加中の高学歴で旅行によく行っているような消費者(今まで主流のスーパーに無視されてきた層)にとって魅力的なお店を開きたい、と。ちなみに、1958年の創業当初の屋号はプロント・マーケット (Pronto Market )といいました。
私の中では、理想的な顧客のイメージが出来上がっていたんだよね。
「その顧客像とは、奨学金をもらって数年間ヨーロッパに行き、Velveeta(アメリカの量販チーズ)やその辺のビール、Folgersコーヒー(量販コーヒー)では満足できなくなった、高学歴でグルメな人間さ」
「貿易商人ジョーの店」(トレーダー・ジョーズ)という南洋のイメージを発想したのは、カリブ海で休暇を過ごしていた時だといいます。当時、1950年代から1960年代の南洋ブームはまだ記憶に鮮やかで、ちょうどトレーダービックス(同じくCA州で始まったティキ・バーレストラン)が全盛期を迎えて世界中に25店舗を展開しています。ボーイングの大型ジェット機747機が世に出てアメリカ人の海外旅行が増え始めたと気づいた創業者は、帰国した旅行者が旅先で味わった料理やワインを恋しがりスーパーで買おうとしても、当時の店は需要にこたえることができずにいることに目を止めました。
あるマーケティングの専門家はそのネーミングをこき下ろしました。
”Trader”なんて、B級馬肉を売ってるヤツみたいだ!
しかし、お店の名前は結局そのまま、トレーダー・ジョーズの最初のお店がまず加州のパサデナにオープンしました。そこは大学のキャンパスや病院、大手技術系企業に囲まれたところで、場所的には彼の想像している顧客ターゲットが多くいて、理想的でした。
「彼は食品雑貨業界ではないよそ者だったから、業界内の人とは違った発想ができたんだ」そう言うのは「食料品店の秘密の生活:アメリカン・スーパーの陰の奇跡」の著者ベンジャミン・ロアーです。「彼は、『食べものは探検であり、旅行、冒険である』という哲学を運営に当てはめたのさ。」
テーマは航海
最初のトレーダー・ジョーの店は、船のベル、魚網、手漕ぎボートの半分、など海の工芸品があちこちに飾られていたように、「航海」がテーマでした。
レジは屋根のついた島です。従業員たちはポリネシア風のシャツを着てバミューダ・パンツを履いていました。店長はキャプテンと呼ばれ、アシスタントは一等航海士という具合です。スピーカーからは陽気なハワイアン音楽が流れていました。
しかし、商品はと言うと、今日のトレーダー・ジョーズで見られるようなものとはまったく違っていました。
当時のお店に並んでいたのは、典型的なコンビニ店にあるような食品で、それプラス、値引きした雑誌や本、靴下やパンスト、レコードや写真現像サービスがあるだけの店でした。しかしながら、最大の売りはアルコールのセレクションにありました。
カリフォルニア州にはアルコールに関してフェア・トレード法が定められていて、製造業者は最低小売価格を決めていたので、お店側がそれより安く売ることは違法でした。安値で競争できないとなると・・他店に差をつけるには種類の豊富さで勝負するしかない、とコロンビーは考えました。
最初の頃のトレーダー・ジョーズは、世界一多く取り揃えたアルコールの種類を誇っていましたーー100銘柄のスコッチ、50銘柄のバーボンやジン、14種類のテキーラ、といった具合に。
コロンビーは最終的に加州のフェアトレード法の抜け道を見つけました。彼の店が高級なフランスワインを輸入したものを競争相手よりも安く売ることで、ワイン通たちに注目させることができたのです。(中でも、通称「2ドルチャック」と言われる有名な$1.99のチャールズ・ショーワインが有名です。)
健康ブーム
1970年代初め頃、コロンビーは高まる健康食品トレンドを勝機と捉えます。
トレーダー・ジョーズの最初の自社ブランド商品はグラノーラでした。そこから、搾りたてのオレンジジュース、ビタミン剤、ナッツ、ドライフルーツ、チーズと自社ブランド製品は増えていきました。ある時点で、トレーダー・ジョーズはブリ―・チーズの全米一の輸入者となっています。
コロンビーは北カリフォルニアの健康食品カルチャーにどっぷり染まっていきました。
仲間内の専門用語を教えてもらうために、サンタクルーズのカリフォルニア州立大卒の若いヒッピーの女性を雇ったほどだったよ(笑)
1977年、コロンビーはトレーダー・ジョーズを再構築します。今日の客がよりなじみのある方向にしたのです。
ちょうど同業のセブン-イレブンが台頭してきており、お店が利益を増やして競争力を保つためには、新しいやり方が必要でした。そこで、家庭日用品と掃除必需品のほとんどを一掃して、食品に集中することにしました。また、扱っていた多くの商品を、自社ブランド製品に切り替えていきました。
「トレーダージョーズを進化させるにつれて変わっていったのは、お店のサイズや飾り方ではなくて、私たちの商品知識への献身だったんだ。それは量販店文化には、全くなかったものだったし、ブランド商品に背を向けることでもあったよ。」コロンビーは言います。
会社は、自社ブランド名さえも、インテリ消費者たちがおっと目を留めそうなものにしました。例えば、ブランデンバーグ(ドイツの地名)・ブラウニーや、アイザック・ニュートンなどです。コロンビーは19世紀の広告の絵をラベルに使ったり、商品のネーミングも自分で考えてつけたりしました。そのうち、輸入品もしくは外国由来の商品には現地語風にしたラベルがつけられ、例えば日本由来のものには「TRADER JOE-SAN」というラベルが付いている。またコロンビーは娘二人シャーロットとマデレーンの名前を使ったり、ビタミン剤をトレーダー・ダーウィンと名付けるなど、変わった商品名を考えだした。
ライバルの全国的ブランド名に対抗できるような、強い自社ブランドを出すというのは、スーパー業界における彼の遺産の一つだろう、と先ほどのロアーは言います。「それが、食品小売業界のバランスを変えたんだ。食品小売業者が突然、力を持ったのさ。それも、スマートなやり方でね」
拡大路線へー
一方、コロンビーは新しい店をどんどんオープンすることには抵抗を示していました。
コロンビーが開店させた一握りの店はすべて南カリフォルニアにありました。そこには彼のターゲットとする購買層(高学歴だが低所得な人たち)がいたからです。(学校の先生、ジャーナリスト、クラシック系の音楽家や美術館/博物館の学芸員など)
1979年、コロンビーはトレーダー・ジョーズをTheo Albrechtの家族、そしてヨーロッパのアルディというスーパーのチェーン店のオーナーに売却しました。
アルディの幹部たちは年に一度、ドイツからトレーダー・ジョーズを見にきていましたが、彼らはこの成長する可能性を秘めたチェーンに実践的な戦略を取りました。
1988年にコロンビーが最高責任者を降りる頃には、トレーダー・ジョーズは加州に店舗数27、売り上げは推定1億5千万ドルがありました。
最高責任者としてその後を引き継いだのは、ジョン・シールズ(John Shields)というスタンフォード大の元社交クラブの仲間です。彼は、トレーダー・ジョーズをカリフォルニア内だけのお店から全国チェーンへと発展させていきました。1993年にはアリゾナ州へ、その2年後に太平洋岸北西部(ワシントン州、オレゴン州など)にも進出します]。アメリカ合衆国東海岸への進出は1996年で、マサチューセッツ州ボストンに隣接するブルックラインとケンブリッジを足掛かりにします]。シールズは15州156店舗に拡大して2001年に勇退、西部部門社長ダン・ベイン (Dan Bane) が CEO 職を引き継ぎます。
そして2020年までに、トレーダー・ジョーズは全米42州とワシントンD.C.に530店舗と推定165億ドルの売り上げを上げています。現在では、グルメ・フード、オーガニック・フード、ベジタリアン・フード、輸入食品、各種ワイン、ユニークな冷凍食品も品揃えし、いわゆる「グルメ・スーパーマーケット」と呼ばれる比較的高級志向の食料品小売店に分類されますが、広告をまったく打たないこと(口コミのみ)、中間流通を省くことによって、オーガニックなど高品質でも価格を低く抑えられています。
「トレーダー・ジョーズの後継者は、私たちが店を始めた当初のコンセプトに驚くほど忠実なまま、30店舗のチェーンを全国規模にしてくれました」コロンビーは2010年に感謝を持って語っています。
私生活では、コロンビーは学校のパーティーで未来の妻、アリス・スティーアに出会っています。彼らはどちらも大学院生だった1952年に結婚し、後に3人の子どもを設けました。コロンビーとその妻は仕事から引退したあと、ロスアンジェルスオペラなど多くの社会事業団に寄付しています。
コロンビーは1988年の会社勇退後、2013年まで複数の大手企業に対してコンサルタント業務を提供していたといいます。
2020年2月28日、彼は長い闘病生活の末、89歳で亡くなりました。彼は最後までカリフォルニア州パサデナに住んでいました。
2008年2月にビジネスウィーク誌は店舗面積単位の売り上げで、同社が全米の食料品店の首位に立ったと報じ、2010年後半と2016年の2回にわたり「フォーチュン」誌は同社の1平方フィート単位の年間売り上げを対照先のWhole Foodsのほぼ2倍、1,750アメリカドルと推計しました。
また、消費者情報雑誌「コンスーマー・レポート」は2009年5月号でトレーダー・ジョーズをアメリカ国内のスーパーマーケット系列の番付第2位に選んでいます。(首位はウェグマンズ)。企業倫理の優良企業の認定を行う「エシスフィア」誌は、2008年~2010年と2014年に同社を最も企業倫理が徹底されている企業としています。
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